本題の「玄義3」では、名前を解釈するところで、触れなければならない事があります。
それは、私達人間が物事を理解しよとしたり、脳にインプットする際に必要になるのが、自分
の見ている世界を認識する概念だと思います。その概念の最たるものが、存在の一つ一つに
付けられている名前であり、名前が無かったたらそれこそ、人に伝えることが出来ません。
また、自分自身で物事の名前、つまり、名詞なるものが無かったら脳はうまく機能しません
。こうした区別を持つことで多くのものごとを知ることが出来るのです。
例えば、私達にも一人一人に名前があります。その名前には、総称される名前、人間とかほ乳類とか人類とか人とかの総称した名前があります。さらに総称する名前だけでは、ハッキリと知ることが出
来ないので、固有名詞を使うことによって深く理解出来るのです。こうして見ると、いかにその名前が大事であることが分かると思います。人間の名前も、総称だけでは真実は見えてきません。固有名詞を合わせることによって、見えてくるのです。
ここで「悪僧」と言うのは総称した名詞で、固有名詞として「淳慧」と言うのがあります。より自分を表現するには、総称と固有の両方を使えばより詳しく表現したものとなるのと同じです。総称の方は、私を全く知らない人にとっては分かり易いものですが、私と言う人物を見たことのある人や会話を交わしたことのある人は、総称より固有名詞の方がより理解出来ると思います。
では、玄義において、表現されてある名前にはどういうもの指し示しているのかと言うことが大事でなのです。前回にも触れましたが、二つの定義(名仮体実と名体倶実)があります。この二つともに、顕そうとする名前と顕される実体との関係のことです。何を顕すかと言えば、勿論仏陀の悟りのことなのです。
仏陀の悟りと私達の物事のとらえ方には、大きな違いがあります。それを昔から「迷えば人間(凡夫)悟れば仏」と言われるところです。世の中の一つ一つのものごとは煩雑であり、それを悟った立場からどうだと言うことは出来ません。ここで世の中を見渡して、その世の中をどのように見るかと言うことに対して触れていきたいと思います。その為に、次に悟られた実体と言うものを弁えると言うものがあるのです。これを略して弁体と言います。
2007年5月28日月曜日
玄義 その1
天台は、仏教と言うものをたった一つの教えであることに気が付いたのです。それは、法華経の中にある第四章の中で、お弟子であるモクレン(モッガラナー)やスボダイ、マカカショウ、マカカセンネンの偉大内な四人阿羅漢たちが、仏様に対して釈尊の教えを理解した内容を譬え話で答えられるところがあります。
その時の内容から、釈尊の教えに五つの時期があると考えたのです。それと言うもの、この五つ時期は期せずして、翻訳されたお経の中、特に教えを受けられる方々で同じ人物でありながら、尊称される名前の違う箇所があることに注目したのです。その使われている名前の時代考証をしてみて教えを縦の時間的流れに配当すると全くその物語の五つの時期と同じであることがわかったのです。
そして、仏様の教えは一つの理念によって教えと言うものを説かれていると言うことに気が付かれたです。このことによって天台は、仏様の教えすべてを統合しなければと言う結論に達したのです。
その五つの時期については、前回でも言いましたが、もう一度見てみると。仏様の教えには、縦である時間的経過と横軸である学ぶ人々の心根と理解度と言うものを組み合わせることによって、一切の仏教、つまり釈尊の深意が我々のものになることを教えんがために体系化したのです。これを教しえの相(すがた)を学ぶことであるから、教相と私たちに教えられたのです。
つまり、ブッダ一代の教えは、本来一つであると前提に立って、妙法蓮華経と言うものを捉えなさいと教えておられるのです。 まず、妙法蓮華経とは何を教えられてるのか?と言うことが大事なのです。そのためには、仏様の教えと言うものをしっかりと把握しないと解らないのです。ですから仏様の教えは、竪と横のすべてで八つの教え見ることができます。その八つの教えが時間的経過と学ぶ人々の心の状態が基本としてあるのです。例えば、青年期の人と老年期や幼少期によって選ぶ言葉は違います。その時に教える人がその人がどのような言語を理解しているかと言うことを察せずに闇雲に伝えようとして伝わらないのと同じです。この竪と横と言うのは、物事の経緯のことですので、経と言う文字を使うのです。スートラと言う言葉は、物事の経緯と言う意味があるのです。
その事をふまえて、次に妙法蓮華経と言う教えの名前はどうして付けられたのかと言うことが大事なのです。 この妙法蓮華経とは、全ての仏様が悟られている法なのです。そしてそれは、一切の仏様のパワーの源なのです。さらに、一切の仏様の修行された原因と結果の成果も含まれている蔵なのです。しかも、見えない世界や見える世界のすべての出来事の中心となるもの因果なのであり、それが妙法蓮華経と言うものなのです。
その時の内容から、釈尊の教えに五つの時期があると考えたのです。それと言うもの、この五つ時期は期せずして、翻訳されたお経の中、特に教えを受けられる方々で同じ人物でありながら、尊称される名前の違う箇所があることに注目したのです。その使われている名前の時代考証をしてみて教えを縦の時間的流れに配当すると全くその物語の五つの時期と同じであることがわかったのです。
そして、仏様の教えは一つの理念によって教えと言うものを説かれていると言うことに気が付かれたです。このことによって天台は、仏様の教えすべてを統合しなければと言う結論に達したのです。
その五つの時期については、前回でも言いましたが、もう一度見てみると。仏様の教えには、縦である時間的経過と横軸である学ぶ人々の心根と理解度と言うものを組み合わせることによって、一切の仏教、つまり釈尊の深意が我々のものになることを教えんがために体系化したのです。これを教しえの相(すがた)を学ぶことであるから、教相と私たちに教えられたのです。
つまり、ブッダ一代の教えは、本来一つであると前提に立って、妙法蓮華経と言うものを捉えなさいと教えておられるのです。 まず、妙法蓮華経とは何を教えられてるのか?と言うことが大事なのです。そのためには、仏様の教えと言うものをしっかりと把握しないと解らないのです。ですから仏様の教えは、竪と横のすべてで八つの教え見ることができます。その八つの教えが時間的経過と学ぶ人々の心の状態が基本としてあるのです。例えば、青年期の人と老年期や幼少期によって選ぶ言葉は違います。その時に教える人がその人がどのような言語を理解しているかと言うことを察せずに闇雲に伝えようとして伝わらないのと同じです。この竪と横と言うのは、物事の経緯のことですので、経と言う文字を使うのです。スートラと言う言葉は、物事の経緯と言う意味があるのです。
その事をふまえて、次に妙法蓮華経と言う教えの名前はどうして付けられたのかと言うことが大事なのです。 この妙法蓮華経とは、全ての仏様が悟られている法なのです。そしてそれは、一切の仏様のパワーの源なのです。さらに、一切の仏様の修行された原因と結果の成果も含まれている蔵なのです。しかも、見えない世界や見える世界のすべての出来事の中心となるもの因果なのであり、それが妙法蓮華経と言うものなのです。
2007年5月25日金曜日
玄義 その2
前回は、文字化けになってしまい、何度やっても文字化けになってしまって、しかもそれを訂正しようとするとまた文字化けでした。再度挑戦し訂正したものも文字化け。そないなっとるねんですわ。本当に申し訳ありません。
天台大師のことについて、名前を「ちぎ」と言います。漢字を使うと文字化けするのでひらがなにしました。このちぎは、古代中国国家である「陳」の国師であったのです。しかし、陳は煬帝によって滅ぼされてしまいます。しかし、「ちぎ」の高名は広く中国中に広まり、煬帝も国師に迎えようとするのですが、「ちぎ」はこれを断ります。それと言うのも、陳の国王の恩義があり「二王に見えず」の信念を貫こうとされたからです。
しかし、(この部分が文字化けになりましたので、後で書きます。) このことは、後の佛教に多大な影響を与えたものとなったのです。詳しくはここでは触れませんが、真理と言うものは、一つの仮説をより単純な概念で説明することが出来ればそれを真理と呼ぶものです。これは、何も佛教だけでなく、私達の自然科学や人文科学でも同じです。多くの概念を費やすことは、真理と言うものではなく単なる説明に過ぎないのです。
ですから、その三大部の一つである「玄義」は十巻からなるもので、第一巻には文句の中でも少し触れましたが五重玄義と言うものの説明があります。これを標章の五玄と言います。一に釈名、ニに弁体、三に論用、四に明宗、五に教相の五つのことです。一番目では、各お経の名前をどのようにして付けたのか?なぜその名前でならなければならないか?と言うことを論じています。これを釈名と言います。なぜこのお経に「妙法蓮華経」と名前を付けられたのか?と言うことです。それには、物事を認識するのにまず、名称を用います。その名称が教えの中身を表現出来てこそ本来の名前となることが出来ます。こうしたことを一代佛教の中で法華経の位置を立てる教えなのです。
佛教には、三つの真理としての考え方や見方があります。それを三諦三観と言います。始めに、「一切の現象世界は本来は空(実体の無いもの)である」空諦。次に、「空」とは言え私達の目の前に現象世界を観てしまうので、法とは仮諦である」とするもの。しかし、仮に囚われると空を忘れ、空に囚われると仮を忘れると言うものですから、「本来は中道なるもの」と。これを難しく言えば「一色一香無作中道」と言います。見える世界と見えない世界のどちらも、空でもなければ仮でも無い中道そのものであると言うことです。えらく難しい言葉になってきましたが、許してください。
この三諦の真理を私達の心で観た時は三観となるのです。この三観は即一つのものであることを「三観一心」と言います。面倒くさい言葉になっていますが、本来真理を語る時より簡潔な言葉(概念)で説明することですから、ご承知置き下さい。 この仮と言うもので名前を観れば、名前が仮のもので、法こそが実体であると言う見方があります。それと、名前と実体が一つであると言う見方もあります。この二つを「名仮体実」(みょうけたいじつ)と「名体倶実」(みょうたいくじつ)と言います。妙法蓮華経は名体倶実である。
天台大師のことについて、名前を「ちぎ」と言います。漢字を使うと文字化けするのでひらがなにしました。このちぎは、古代中国国家である「陳」の国師であったのです。しかし、陳は煬帝によって滅ぼされてしまいます。しかし、「ちぎ」の高名は広く中国中に広まり、煬帝も国師に迎えようとするのですが、「ちぎ」はこれを断ります。それと言うのも、陳の国王の恩義があり「二王に見えず」の信念を貫こうとされたからです。
しかし、(この部分が文字化けになりましたので、後で書きます。) このことは、後の佛教に多大な影響を与えたものとなったのです。詳しくはここでは触れませんが、真理と言うものは、一つの仮説をより単純な概念で説明することが出来ればそれを真理と呼ぶものです。これは、何も佛教だけでなく、私達の自然科学や人文科学でも同じです。多くの概念を費やすことは、真理と言うものではなく単なる説明に過ぎないのです。
ですから、その三大部の一つである「玄義」は十巻からなるもので、第一巻には文句の中でも少し触れましたが五重玄義と言うものの説明があります。これを標章の五玄と言います。一に釈名、ニに弁体、三に論用、四に明宗、五に教相の五つのことです。一番目では、各お経の名前をどのようにして付けたのか?なぜその名前でならなければならないか?と言うことを論じています。これを釈名と言います。なぜこのお経に「妙法蓮華経」と名前を付けられたのか?と言うことです。それには、物事を認識するのにまず、名称を用います。その名称が教えの中身を表現出来てこそ本来の名前となることが出来ます。こうしたことを一代佛教の中で法華経の位置を立てる教えなのです。
佛教には、三つの真理としての考え方や見方があります。それを三諦三観と言います。始めに、「一切の現象世界は本来は空(実体の無いもの)である」空諦。次に、「空」とは言え私達の目の前に現象世界を観てしまうので、法とは仮諦である」とするもの。しかし、仮に囚われると空を忘れ、空に囚われると仮を忘れると言うものですから、「本来は中道なるもの」と。これを難しく言えば「一色一香無作中道」と言います。見える世界と見えない世界のどちらも、空でもなければ仮でも無い中道そのものであると言うことです。えらく難しい言葉になってきましたが、許してください。
この三諦の真理を私達の心で観た時は三観となるのです。この三観は即一つのものであることを「三観一心」と言います。面倒くさい言葉になっていますが、本来真理を語る時より簡潔な言葉(概念)で説明することですから、ご承知置き下さい。 この仮と言うもので名前を観れば、名前が仮のもので、法こそが実体であると言う見方があります。それと、名前と実体が一つであると言う見方もあります。この二つを「名仮体実」(みょうけたいじつ)と「名体倶実」(みょうたいくじつ)と言います。妙法蓮華経は名体倶実である。
2007年5月23日水曜日
玄義
法華経に説かれた教えを頂くために、必ず学んでおかなければならないものに、三つあります。
一つは、今まで触れてきた文句と言うもの。そして法華玄義と摩訶止観です。(これを法華三大部と言います。)
文句の中でも言ってきましたが、名前と実躰、因果と力用。そしてそれがどのような形で教えられているかと言う相。この五つがすべてのお経を解釈する上での基準になります。法華玄義とは、法華経の中で観る玄義と言う意味です。
まず、法華経とは略された名前なので本来の名前を言いますと「妙法蓮華経」と言うのが本来の名前です。余談ですが、法華経を拠り所としているお寺の名前に「妙蓮寺とか「法華寺」とか言うのがありますが、実は同じ名前を言っているです。正式には「妙法蓮華経寺」と言うことです。
なぜ、インド語のサッダルマプンダリーキャを「妙法蓮華経」と付けられたのでしょう。と言うことが大事になります。サッダルマとは直訳すれば「正法」と訳するのが普通なのですが、「妙」と言う文字をクマラジーバが使われました。そこで、まず全体的なことを触れなければならないので、サッダルマプンダリーキャは、何を意味されたものでどのようなものなのかと言う前提が必要です。一応の解釈で、妙法蓮華経とは如何なるものを指しているのかと言いますと「仏様の本心や住まわれている環境世界と本来の仏様の名前や功徳、その他一切の仏様が持ち合わせている悟りの全体と功徳(人間的に言えば功績と言う方が分かり易いと思います。
しかし、それでは、すべてを表現したことになりませんので、修行されたすべてのカルマと得られた結果=果報と。) こうした仏陀がすべての時間を費やし得られたすべてのものの名前を妙法蓮華経と言うのです。
よく言われる言葉に「妙法蓮華経者、本地甚深之奥蔵」と。決して人間が理解出来るものでもなく、誰もそのことを説ききることは出来ないものなのであり、唯仏様だけがそのことを悟られているものを「妙法蓮華経」と言うのです。このことは、過去のどの仏教徒も明らかにすることはありませんでした。ただ中国に生まれられた智・噺世錣譴詈・世韻・修海箸鮓腓譴討い燭里任后・颪Ⅴ・鵑世鵑任垢・∧源擎修韻靴討靴泙い泙靴拭・_鵑砲蓮・メ・砲弔い鴇・型┐譴泙后」
一つは、今まで触れてきた文句と言うもの。そして法華玄義と摩訶止観です。(これを法華三大部と言います。)
文句の中でも言ってきましたが、名前と実躰、因果と力用。そしてそれがどのような形で教えられているかと言う相。この五つがすべてのお経を解釈する上での基準になります。法華玄義とは、法華経の中で観る玄義と言う意味です。
まず、法華経とは略された名前なので本来の名前を言いますと「妙法蓮華経」と言うのが本来の名前です。余談ですが、法華経を拠り所としているお寺の名前に「妙蓮寺とか「法華寺」とか言うのがありますが、実は同じ名前を言っているです。正式には「妙法蓮華経寺」と言うことです。
なぜ、インド語のサッダルマプンダリーキャを「妙法蓮華経」と付けられたのでしょう。と言うことが大事になります。サッダルマとは直訳すれば「正法」と訳するのが普通なのですが、「妙」と言う文字をクマラジーバが使われました。そこで、まず全体的なことを触れなければならないので、サッダルマプンダリーキャは、何を意味されたものでどのようなものなのかと言う前提が必要です。一応の解釈で、妙法蓮華経とは如何なるものを指しているのかと言いますと「仏様の本心や住まわれている環境世界と本来の仏様の名前や功徳、その他一切の仏様が持ち合わせている悟りの全体と功徳(人間的に言えば功績と言う方が分かり易いと思います。
しかし、それでは、すべてを表現したことになりませんので、修行されたすべてのカルマと得られた結果=果報と。) こうした仏陀がすべての時間を費やし得られたすべてのものの名前を妙法蓮華経と言うのです。
よく言われる言葉に「妙法蓮華経者、本地甚深之奥蔵」と。決して人間が理解出来るものでもなく、誰もそのことを説ききることは出来ないものなのであり、唯仏様だけがそのことを悟られているものを「妙法蓮華経」と言うのです。このことは、過去のどの仏教徒も明らかにすることはありませんでした。ただ中国に生まれられた智・噺世錣譴詈・世韻・修海箸鮓腓譴討い燭里任后・颪Ⅴ・鵑世鵑任垢・∧源擎修韻靴討靴泙い泙靴拭・_鵑砲蓮・メ・砲弔い鴇・型┐譴泙后」
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