2007年8月18日土曜日

玄義4

 本題の「玄義3」では、名前を解釈するところで、触れなければならない事があります。

 それは、私達人間が物事を理解しよとしたり、脳にインプットする際に必要になるのが、自分
の見ている世界を認識する概念だと思います。その概念の最たるものが、存在の一つ一つに
付けられている名前であり、名前が無かったたらそれこそ、人に伝えることが出来ません。
また、自分自身で物事の名前、つまり、名詞なるものが無かったら脳はうまく機能しません
。こうした区別を持つことで多くのものごとを知ることが出来るのです。

 例えば、私達にも一人一人に名前があります。その名前には、総称される名前、人間とかほ乳類とか人類とか人とかの総称した名前があります。さらに総称する名前だけでは、ハッキリと知ることが出
来ないので、固有名詞を使うことによって深く理解出来るのです。こうして見ると、いかにその名前が大事であることが分かると思います。人間の名前も、総称だけでは真実は見えてきません。固有名詞を合わせることによって、見えてくるのです。

 ここで「悪僧」と言うのは総称した名詞で、固有名詞として「淳慧」と言うのがあります。より自分を表現するには、総称と固有の両方を使えばより詳しく表現したものとなるのと同じです。総称の方は、私を全く知らない人にとっては分かり易いものですが、私と言う人物を見たことのある人や会話を交わしたことのある人は、総称より固有名詞の方がより理解出来ると思います。

 では、玄義において、表現されてある名前にはどういうもの指し示しているのかと言うことが大事でなのです。前回にも触れましたが、二つの定義(名仮体実と名体倶実)があります。この二つともに、顕そうとする名前と顕される実体との関係のことです。何を顕すかと言えば、勿論仏陀の悟りのことなのです。

 仏陀の悟りと私達の物事のとらえ方には、大きな違いがあります。それを昔から「迷えば人間(凡夫)悟れば仏」と言われるところです。世の中の一つ一つのものごとは煩雑であり、それを悟った立場からどうだと言うことは出来ません。ここで世の中を見渡して、その世の中をどのように見るかと言うことに対して触れていきたいと思います。その為に、次に悟られた実体と言うものを弁えると言うものがあるのです。これを略して弁体と言います。

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