2007年5月25日金曜日

玄義 その2  

 前回は、文字化けになってしまい、何度やっても文字化けになってしまって、しかもそれを訂正しようとするとまた文字化けでした。再度挑戦し訂正したものも文字化け。そないなっとるねんですわ。本当に申し訳ありません。

 天台大師のことについて、名前を「ちぎ」と言います。漢字を使うと文字化けするのでひらがなにしました。このちぎは、古代中国国家である「陳」の国師であったのです。しかし、陳は煬帝によって滅ぼされてしまいます。しかし、「ちぎ」の高名は広く中国中に広まり、煬帝も国師に迎えようとするのですが、「ちぎ」はこれを断ります。それと言うのも、陳の国王の恩義があり「二王に見えず」の信念を貫こうとされたからです。

 しかし、(この部分が文字化けになりましたので、後で書きます。) このことは、後の佛教に多大な影響を与えたものとなったのです。詳しくはここでは触れませんが、真理と言うものは、一つの仮説をより単純な概念で説明することが出来ればそれを真理と呼ぶものです。これは、何も佛教だけでなく、私達の自然科学や人文科学でも同じです。多くの概念を費やすことは、真理と言うものではなく単なる説明に過ぎないのです。

 ですから、その三大部の一つである「玄義」は十巻からなるもので、第一巻には文句の中でも少し触れましたが五重玄義と言うものの説明があります。これを標章の五玄と言います。一に釈名、ニに弁体、三に論用、四に明宗、五に教相の五つのことです。一番目では、各お経の名前をどのようにして付けたのか?なぜその名前でならなければならないか?と言うことを論じています。これを釈名と言います。なぜこのお経に「妙法蓮華経」と名前を付けられたのか?と言うことです。それには、物事を認識するのにまず、名称を用います。その名称が教えの中身を表現出来てこそ本来の名前となることが出来ます。こうしたことを一代佛教の中で法華経の位置を立てる教えなのです。

 佛教には、三つの真理としての考え方や見方があります。それを三諦三観と言います。始めに、「一切の現象世界は本来は空(実体の無いもの)である」空諦。次に、「空」とは言え私達の目の前に現象世界を観てしまうので、法とは仮諦である」とするもの。しかし、仮に囚われると空を忘れ、空に囚われると仮を忘れると言うものですから、「本来は中道なるもの」と。これを難しく言えば「一色一香無作中道」と言います。見える世界と見えない世界のどちらも、空でもなければ仮でも無い中道そのものであると言うことです。えらく難しい言葉になってきましたが、許してください。

 この三諦の真理を私達の心で観た時は三観となるのです。この三観は即一つのものであることを「三観一心」と言います。面倒くさい言葉になっていますが、本来真理を語る時より簡潔な言葉(概念)で説明することですから、ご承知置き下さい。 この仮と言うもので名前を観れば、名前が仮のもので、法こそが実体であると言う見方があります。それと、名前と実体が一つであると言う見方もあります。この二つを「名仮体実」(みょうけたいじつ)と「名体倶実」(みょうたいくじつ)と言います。妙法蓮華経は名体倶実である。

0 件のコメント: